201705013ブログ
「器」
第2テモテ2:20、21
大きな家には、金や銀の器だけでなく、木や土の
器もあります。また、ある物は尊いことに、ある物
は卑しいことに用います。
ですから、だれでも自分自身をきよめて、これらの
ことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器と
なります。
私達は、主の器である。ある意味、器にすぎない存在。
器にさまざまな主の祝福を神様がいれてくださらなければ
器としての意味をなしません。
しかし、たかが器、されど器。
器が、奇麗に洗われているか、汚れていないか
その器に入れられる食材がどんなに高価で美味しい
ものであっても、器が奇麗に洗浄されているか
が、問題です。
昨晩食事をして洗っていない器に、たとえば
それがカレーを食べた後の洗われていない器に
今朝の朝食、卵、ベーコン、サラダ、クロワッサン
このように美味しそうな食事が載っていたら
どうでしょう。食べたいと思いますか。
イザヤ45:9
ああ。
陶器が陶器を作る者に抗議するように
自分を造った者に抗議する者。
粘土は、形造る者に、
「何を作るのか」とか、
「あなたの作った物には、手がついていない」
また、器は、陶器師である主が一つ一つ主の願い通りの
デザインに創りあげられます。
私達が主に造られた器の一つ一つです。
私達、器は創造主に対して、ああだこうだ言うことは
できない者たちです。
主が私達を主の思うデザインで、一つ一つ丹念に
造られましたから、私達は創り主の願うように
与えられたデザインで生きることが、望ましく
そうでないなら、主は私達をまた主の願う通りに
造られ変える必要も出てきます。
あなたは、主の器として用いられ清い状態で
保たれているでしょうか。
また、創り主なる神に対して、感謝して生きて
いるでしょうか。